火の手が迫る。小萩は逃げ惑う人々を必死で守っていた。 熱い。水が欲しい。それでも小萩は逃げるわけにはいかないのだ。 ちろちろと火が体を舐め始めたのが分かる。 硬い鱗に守られているとはいえ、小萩は火に弱い。 竜神は、水の神なのだから。 「小萩さま!!」 小萩の体の下から声がした。少女が必死に手を振っている。 「あたしで最後です!お願い、有間さまを・・・・っ」 彼女の着物は真っ黒だ。手も顔もすすだらけで、ところどころ火傷を負っている。 「マツ、有間は何処に!?」 「母屋の一番奥の部屋に。結界をずっと守っておられます。けれど、奴らが火をつけたから威力が弱まって・・・それで小萩さまをこちらに向かわせたと。お願い、早く有間さまのもとへ!」 小萩は視線を屋敷のほうへと転じる。 痛む体を必死に伸ばして、母屋を見つけようとしたが煙に遮られてそれも出来ない。 有間の、主の気配すら探れない。小萩の神通力もそろそろ限界なのだ。 「小萩さま!」 次の瞬間、少女の声が思ったよりも近くで聞こえ、小萩は慌てて身を起こした。 長い髪がばさりと目の前に落ちてくる。人の姿に戻ってしまったのだ。 「マツ、早く逃げなさい。私は有間のところへ行かなくてはならない」 よろりと歩き出そうとする小萩を、少女は悲痛な目で見る。 「でも小萩さま、お姿が・・・」 「それでも行かなくてはならない。私の主は有間だけだ。私は主を守るために存在しているのだから」 マツはなおも口を開きかけたが、弱々しく微笑んだ。 「小萩さまの美しい御髪、黒く光って遠くからでも見えました。黒竜さま、どうぞ有間さまをお願いいたします」 「早く、行きなさい」 深々と少女は一礼し、闇に消えた。かすかに、肩を震わせながら。 辰巳家は太古の時代より、精霊や物の怪を使役する一族として有名だった。 その一族の中でも飛び抜けた才能を持っていたのが有間だった。 辰巳家最後の当主であり、神を使役したただ一人の人間。 小萩は今でも有間と最初に交わした言葉を覚えている。 川の中に袴のまま有間は座り込んでいた。そして、裸で自分を見上げる小萩をそっと抱きしめて呟いたのだ。 「お前の名はこれから小萩だよ。主は私だ」 「コハギ・・・?」 「そう、お前が住んでいたこの川は萩川というからね。小さな神が住んでいたのは知っていたが、まさか私の声に反応するとは思っていなかった」 くすくすと笑う有間を見て、小萩は不思議と安心したのを覚えている。 自分はこれからこの主に仕えていくのだと思うと、何故か涙が出そうになった。 熱い。周りの木々をこやしにして火はますます燃え盛っている。 小萩はよろめきながら辰巳家の屋敷に向かって歩を進めていた。 小さな体が熱風に煽られる。そのたびに膝が砕けそうになるのを小萩は歯を食いしばって耐えるしかなかった。 自分がもう少し立派な竜神なら、こんな火を止めることなどたやすいのに。 「お前はまだ小さな神だったからね」 有間は小萩を見て言ったものだ。女中で一番若いマツと殆ど背が変わらない。 「ならば私がもう少し成長してから、有間が声をかければ良かったのだ」 そう言うと有間は楽しそうに 「神々の成長は遅いものだから、小萩が大きくなるのを待っていたら私がこの世のものではなくなってしまう」 有間の声が蘇るたびに、小萩は顔を上げた。 熱い。水が欲しい。けれど小萩は進まなくてはならない。主を守るために。 辰巳家が狙われているという噂が流れ出したのはいつ頃だっただろう。 血なまぐさい戦が多いこの時代、辰巳家の不思議な力はおのずと災いを呼び寄せることになった。 「今来ていたのは、山辺の使者か?」 「小萩、近いうちに辰巳家は大きな災いに飲み込まれることになろう。そのときはお前が一族を守るのだよ」 小萩の問いに答えず、有間は硬い声で言った。思わず有間を見上げてしまう。 有間のあんなに険しい顔を、小萩はこれまで見たことがなかった。 山辺はこの地を治める権力者だ。辰巳家の力を利用しようと長年企んでいたようだが、ついに動き始めたらしい。 「有間を守ることは一族を守ることだ。そうだろう?」 そう言う小萩の頭を、有間はゆっくりと撫でて微笑んだ。 「そうだね」 小萩は、有間のその顔が妙に印象に残った。 そのときは何故か分からなかったけれど、今なら分かる。・・・あの、消えそうな微笑の意味が。 辰巳家の屋敷は、火に飲まれてしまっていた。 庭にあった小さな井戸。有間はそこで行水をよくやっていた。小萩も夏はそこでマツと遊んだものだ。 崩れかけた納屋。有間とよくそこで星の観察をした。屋根に上手い具合に穴が開いていたのだ。 夜に一人で登っていた屋根の上。こっそり竜の姿になって散歩したりもした。時には有間を乗せて。 一族の食事を作っていた大釜、優しい匂いのする有間の部屋、薄暗くてわくわくした地下室。 全て、今は火の中だった。全てが黒くなり、ひしゃげ、がらがらと大きな音を立てて崩れている。 小萩は熱風の中、叫び続けた。主の名を。どんなに叫んでも返事は聞こえない。 火は小萩の暖かい思い出を貪っていく。 有間の声が蘇る。それだけで身が引き裂かれるほどの辛さが小萩を襲う。 「人は大切なものを、誰でも一つは持っているものだ。そのためなら人間はなんだってするんだよ」 「有間は?なにか持っているのか?」 「私が大切に思っているのは、一族のみんなと雄大な自然と、そしてお前だよ。小萩」 気付くと、小萩の視線は高いところにあった。 黒く輝く鱗、長く力強い体。小萩は本来の姿で、有間の名を呼び続ける。 自分が神だなんて、実感したことはなかった。 自分には有間がいる。それだけで良かったのに、その有間でさえ奪おうとするものがいる。 それでは小萩はなんのために存在すればいいのか? 有間だけが存在理由だったのに。そばにいられるだけで良かったのに。 小萩の叫びは雲になり、風になり、そして雨になった・・・。 はらりはらりと舞い落ちる花びら。若い桜の木がぽつんと立っている。 漂っているのは煙、そしてあるのは焦土ばかり。 その木の根元に、一人の少年が倒れている。 少年は動かない。長く伸びた髪が、ところどころ焦げて彼の体を覆っている。 少年の上に、花びらは静かに舞い降りていく。 ふわり。ふわり。 花びらが風もないのに舞い落ちていく。少年の体に静かに降り積もっていく。 やがて少年は花びらに覆われてしまう。土に埋もれてしまう。 緩やかに彼の体は変化していく。 ふわりと黒竜が木に絡み付いていく。昇りかけた朝日が少しだけその姿を照らす。 少年の姿は消え、黒竜もまた桜の木に溶け込んでいくように消えた。 はらり。はらり。 花びらはいつまでも尽きない。いつまでも、降り続ける。 ずっと、永遠に。 「私はね、桜の木が一番好きなんだよ」 「桜が?」 「小萩は嫌いか?」 「・・・嫌いではない。しかし妖艶で時々怖いときがある」 「妖艶か。私が好きなのはね、まだ若い桜だよ。細くて小さな木だ。・・・生まれ変わるなら私はそういう桜の木になりたい」 「ではそのときには、私もそばにいる。・・・有間の、そばにいる」 「・・・ああ、いておくれ」 |